「あんちょこを作りなさい」
「あんちょこがあればいいでしょ」
かつて地方の大きな大学の人事課で働いていた頃、尊敬する女性の上司からそう言われたことがあります。その方は一回り以上上の方で、仕事が抜群にでき、ユーモアがあって、明るく人情味がある、でも非常に厳しい方でした。
しかし当時の私は「あんちょこ」という言葉に馴染みがなく、それが何を指すのか分からなかったため、「それってマニュアルのことですか?」と尋ねました。すると返ってきたのは、「あんちょこも分かんないの?」という少し強い問いの言葉でした。
その場で問い詰められてしまったことで質問できる雰囲気ではなくなり、それ以上聞くことができませんでした。そのため当時の私の中では、「あんちょこという言葉は何だったのだろう」という疑問が、わかったような、わからないような10年以上経った今でも残り続けています。
小学館のデジタル大辞泉で「あんちょこ」の意味を調べると、次のように書かれています。
あん‐ちょこ
教科書を予習するのに、いちいち調べたり考えたりせずにすむように作られた、手軽な参考書。虎の巻。
まさに、自分でいちいち一から考えたり迷ったりせずにスムーズに業務を進めるための「手軽な参考書」「虎の巻」のことだったのだと、後になって分かります。
この経験を振り返るとき、組織コンサルタントの山本大平氏の著書『仕事ができる人の超整理術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)にある言葉が深く重なります。
「『自分専用の整理本』にノウハウを蓄積していく」
「経験を積めば自然とビジネスパーソンとして成長するというのは幻想である。経験は言語化されて初めてスキルになる」
山本氏は同書の中で、過去の経験を整理・ストックすることの真価をこう語っています。
「過去の成功は「確実に成功するパターン」として再利用し、過去の失敗は「二度と踏まない地雷原の地図」としてストックする。自分だけの成功の法則を育てるということは、「昨日の自分」が流した汗と涙を踏み台にして、今日の自分をより高いステージへと押し上げる「複利の投資」なのです」
上司が言っていた「あんちょこを作りなさい」とは、まさにこのことだったのではないでしょうか。
自分専用の整理本にノウハウを蓄積していく作業は、最初は手間がかかるものです。しかし、日々の成功パターンや「地雷原」の記録を言語化して蓄積していくことで、自分だけの「最強の整理本」「最強の攻略法(=あんちょこ)」ができあがります。
「あんちょこを作って、それを適宜見ていけばいい」という考え方は、一度自分の経験を言語化・整理しておけば、迷ったときにいつでも参照して正しく自走できるという、非常に理にかなった仕事術であり、未来の自分への「複利の投資」だったのです。
自分の思考やノウハウを整理し、「整える」という視点は、個人の成長においても、組織の暗黙知を形式知化していく上でも極めて重要なプロセスです。自分たちがこの整理本をどう作っていくか、そして部下にどう作ってもらうかという関わり方が、組織の成果を大きく左右します。
このエピソードから、これからの管理職やリーダーに求められる要件が見えてきます。
頭の中のイメージは一致しないという前提
自分が描いているイメージと、相手が描いているイメージはイコールではありません。世代や経験の違いによって言葉の解像度は異なるため、意図を正確に伝える伝達力やコミュニケーション力が不可欠です。
心理的安全性を確保する雰囲気づくり
「そんなことも分からないのか」と問い詰めたり、質問しにくい威圧的な空気を作ったりしてしまうと、部下は分からないことを分からないと言えなくなります。何度も確認できる関係性と環境を整えることが重要です。
自発的な言語化を促す関わり方
単に「作りなさい」と指示するだけでなく、部下自身が経験を言語化し、自分なりの「あんちょこ」を作っていけるような問いかけやサポートが求められます。
一方で、指示を受ける側の20代や30代の若手世代にも必要なスタンスがあります。
分からない言葉や曖昧な指示に直面したとき、気後れして放置するのではなく、何度でも確認するメンタルの強さを持つことです。「自分はこういうイメージで捉えましたが、合っていますか?」と自身の解釈を提示し、上司のイメージとすり合わせに行く勇気と行動力が、認識のズレを防ぎます。
「あんちょこ」を巡るすれ違いは、単なる言葉の解釈の問題ではありません。
リーダー側が自身の頭の中にあるイメージを丁寧に言語化して伝え、部下側も恐れずに確認を重ねる。その双方向のコミュニケーションがあってはじめて、経験は「スキル」として整理され、昨日の汗と涙が今日の自分をより高いステージへと押し上げていくのだと感じています。
【参考・出典】
・ 『デジタル大辞泉』(小学館)
・ 山本大平 著『仕事ができる人の超整理術』(株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン、2026年8月21日第1刷)